2021-03-10 第204回国会 衆議院 外務委員会 第2号
百年ぐらい前にスペイン風邪がはやったときに、何度かこの委員会でも紹介していますけれども、私の、会津出身の松江豊寿公が徳島の板東俘虜収容所で人道的な扱いをして、第九の初演につながったという話を何度かしていますが、スペイン風邪がはやって、俘虜たちにもしっかり手当てをして、でも、そのときに、やはり上層部や周りからは日本人が優先だろうということを言われていたんですけれども、人道的な扱いということで平等にやったという
百年ぐらい前にスペイン風邪がはやったときに、何度かこの委員会でも紹介していますけれども、私の、会津出身の松江豊寿公が徳島の板東俘虜収容所で人道的な扱いをして、第九の初演につながったという話を何度かしていますが、スペイン風邪がはやって、俘虜たちにもしっかり手当てをして、でも、そのときに、やはり上層部や周りからは日本人が優先だろうということを言われていたんですけれども、人道的な扱いということで平等にやったという
ちょうど今から百年前の一九一八年六月一日に、第一次世界大戦期でございましたが、現在の徳島県鳴門市にありました板東俘虜収容所のドイツ軍捕虜の方々によって結成された楽団が、日本で初めてベートーベン交響曲第九番、第九を全曲演奏しました。
松江さんというのは、会津出身で、陸軍少将まで上り詰め、百年前に、徳島県鳴門の板東俘虜収容所の所長として活躍をされ、非常に人道的な俘虜の扱いによって、当時のドイツ俘虜たちがそこで第九の初演を行った。
「硫黄島からの手紙」という映画もありましたが、私も、「バルトの楽園」という、第一次世界大戦後に鳴門の板東俘虜収容所において、第九を通じた、まさに人道的な扱いをした所長、会津出身の松江豊寿さんが主人公ということの縁で行ってきたわけであります。
今の受刑者の話ではないんですが、およそ百年前、正確に言うと九十八年前なんですけれども、徳島の鳴門市に板東俘虜収容所というのがありまして、これは第一次世界大戦のドイツ兵を扱う俘虜収容所でありました。第一次世界大戦当時ですから、九州の東久留米にもあったんですけれども、そこはめちゃくちゃな。そこから鳴門に来た受刑者たちは天国だと言った。
○国務大臣(岸田文雄君) まず、ポツダム宣言におきましては、その第十項におきまして、我ら、すなわち連合国でありますが、我らの俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加えらるべし、すなわち連合国の捕虜を虐待した者を厳罰に処すべきと述べています。
被爆者はどこにいても被爆者でありますが、先日、第二次大戦中に長崎市の俘虜収容所に収容されて被爆した現在九十三歳のオランダ人男性に、同国日本大使館を通じて被爆者健康手帳が交付をされました。
○国務大臣(岸田文雄君) ポツダム宣言、それからサンフランシスコ平和条約におけるこの捕虜問題の対応ですが、ポツダム宣言におきましては、その第十項におきまして、我ら、すなわち連合国ですが、の俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰加えらるべし、すなわち連合国のこの捕虜を虐待した者を厳罰に処すべきというふうに述べています。
それから一方、この捕虜の方を対応しておりました、いわゆる俘虜監視員という方々が朝鮮とか台湾から動員をされた青年たちであったということになっておりまして、戦後の軍事法廷でBC級戦犯として訴追をされたりしております。
○政府参考人(及川桂君) 連合国の捕虜関係の資料についてでございますが、さきの大戦中に外国人の捕虜関係の事務を担当する組織として、旧陸軍に俘虜情報局が設置され、その後同局は、戦後第一復員省から総理府に引き継がれた後組織廃止され、昭和三十二年、その際に資料が当時の厚生省に引き継がれたということで承知しております。
昭和十六年に外国人捕虜関係の事務を担当する組織として旧陸軍に俘虜情報局が設置され、この俘虜情報局の組織につきましては、戦後、陸軍の後継組織であります第一復員省、その後、総理府を経て、この組織が昭和三十二年に廃止された際に、保管している資料が厚生省に引き継がれて今日に至っているという経緯でございます。
○国務大臣(中曽根弘文君) ポツダム宣言の第十項におきましては、「吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ」と規定されていることを私は認識をしております。
○政府参考人(及川桂君) 厚生労働省の保管資料を調べた中で、俘虜情報局から引き継いだ資料ということで「俘虜収容所分所別一覧表」といったような資料がございました。
これは、日本人として動員されて、連合国の捕虜の俘虜監視員をさせられて、現場の捕虜虐待の責めを負わされて処刑をされたり、あるいは長期刑に服役をさせられているというケースでございます。戦後、巣鴨プリズンに送られて釈放されると同時に、今度はもう外国人だから後のことは知らないよというふうな形での、何らの援護措置もないままにほうり出されているケースがございます。
この新聞を見ますと、ここで、今般日本政府は、陸軍の要求に基づいて、大東亜戦争における赫々たる戦果によって各地に収容中のアメリカや英国の俘虜の監視に従事せしめるために、朝鮮半島における有為なる青年数千人を軍属として採用することになった。
これを見ますと、「事変勃発以来ノ実情ニ徴スルニ嚇々タル武勲ノ反面ニ掠奪、強姦、放火、俘虜惨殺等皇軍タルノ本質ニ反スル幾多ノ犯行ヲ生シ為二聖戦ニ対スル内外ノ嫌悪反感ヲ招来シ」、「慰安施設ニ関シ周到ナル考慮ヲ払ヒ殺伐ナル感情及劣情ヲ緩和抑制スルコトニ留意スルヲ要ス」、「特ニ性的慰安所ヨリ受クル兵ノ精神的影響ハ最モ率直深刻ニシテ之カ指導監督ノ適否ハ志気ノ振興、軍紀ノ維持、犯罪及性病ノ予防等ニ影響スル所大ナルヲ
○阿南政府委員 ポツダム宣言第九項で、日本国軍隊が武装解除するべき旨を一般的に述べているわけでございますが、どのような方法によるか等、武装解除の詳細については一切言及がないことから判断いたしましても、この規定は一般的な意味で武器を放棄すべきことを述べた趣旨であるというふうに考えておりまして、その後段の趣旨、軍隊の構成員は俘虜、労働力として提供されることなく、みずからの家庭に復帰し、平素の生業に従事すべきであるとの
これを見ますと、「事変勃発以来ノ実情ニ徴スルニ赫々タル武勲ノ反面ニ掠奪、強姦、放火、俘虜惨殺等皇軍タルノ本質ニ反スル幾多ノ犯行を生シ為ニ聖戦ニ対スル内外ノ嫌悪反感ヲ招来シ」、「慰安施設ニ関シ周到ナル考慮ヲ払ヒ殺伐ナル感情及劣情ヲ緩和抑制スルコトニ留意スルヲ要ス」、「特ニ性的慰安所ヨリ受クル兵ノ精神的影響ハ最モ率直深刻ニシテ之カ指導監督ノ適否ハ志気ノ振興、軍紀ノ維持、犯罪及性病ノ予防等ニ影響スル所大ナルヲ
中を見ますと、歳入の部ですけれども、公債及繰替借入金、朝鮮総督府特別会計より繰入、台湾総督府特別会計より繰入、また歳出の項を見ますと、臨時軍事費、支那事件行賞諸費、俘虜収容費、物資特別購入諸費、軍政費等、最近では聞きなれない項目があるわけでございます。
私自身よく知っている人で、この人は故人になりましたけれども、オランダ人の俘虜を、戦時中に我が身に配給されたものまで割いてその人たちに分け与えていながら、戦後は巣鴨プリズンに引かれていったというケースもございます。
また、オーストラリアの俘虜、オランダの人も含まれておったようでありますが、これらの方々も三池炭鉱の坑内で重労働に実はあえいでいたのであります。その後、私の与えられた現場の担当には、中国人、山東省の捕虜の人々と一緒に働くという経過になったのであります。私は、三池炭鉱からその後、旭川の第一師団の第三部隊に入隊をいたしました。
○岸本政府委員 米ソ協定によりソ連邦及びソ連邦支配下の領土よりの引き揚げの対象とされましたのは、日本人俘虜及び一般日本人の二者に限られていたわけでございまして、朝鮮半島出身者は対象者には含まれておりません。
その中に、内地からの引き揚げであるとか旧軍人云々とかいうことがいろいろ書いてあって、引揚者の問題、復員の人の問題、それからあちらで俘虜になった人の問題、そうした者の手当てが書いてある中に、「前三号に掲げるもののほか、旧陸海軍の残務の整理に関すること。」という一条がございます。
というのが百四にあり、未帰還者の問題は百五にあり、百六に俘虜に関するものがあり、それぞれのそういう条項があるわけですね。それの中で見まして、その中の一つで百七というところに「旧陸海軍の残務の整理に関すること。」というのがあるから、これはまず厚生省というお役所がその残務の整理を引き受けるわけであるということをまず決めているんだというふうに私理解するわけですよ。
そこで一点だけ確認をしたいわけでございますが、特に今現存されておる方は三万九千人ほどというふうに聞いておりますが、このサハリン残留韓国人の方々、この方々が日本あるいは日本を通過して韓国に帰れなかった原因というものについて、二月二十二日の岸本政府委員の御発言ですと、日本人俘虜と一般日本人の二者に限られた。要するに、引き揚げ作業がそういうふうに二者に限られた。